2009年11月16日月曜日

鐘声七條

鐘声七條  

世界は実に広々としている。
では、どうして鐘の合図で七條の袈裟を着るのか、の意である。(無門関、第十六則)
この句は雲門禅師の言葉である。

宇宙は広大無辺であり、一方日常生活は,服を着替えたり食事をしたり、平凡なことの連続である。宇宙に比すれば、行住坐臥,見聞覚知、喜怒哀楽など一つ一つの人生は取るに足りぬちっぽけなものに思われる。

僧堂では箸の上げ下ろしから読経の一言一句まで厳しく指導される。これも宇宙の広大に比すれば、たいしたことではない。栄枯盛衰、毀誉褒貶はこの世の常。では、人生の本当の価値とは.雲門の句は、この答えを示していると思われる。

広大無辺の宇宙も一心の中であり、日常の細々とした生活のすべても一心の中ある。
宇宙は広大ですばらしく、日常生活はちっぽけで見劣りするというならば、どちらも一心に於いて同質同量であるのに、おかしいではないか。一心の本心に背いているといえる。

では一心とは何者か。見聞覚知はただ見聞覚知,行住坐臥はただ行住坐臥、喜怒哀楽はただ喜怒哀楽だけで,この他に一物なきことに目覚めることである。当然、そのものには私もなければ、心としてとらえるものもない。これが真の私であり、真の心である。即ち、
無の心、無心ということである。

一心の世界の外にこれを認識するもう一つの心『私』があると思うから、善悪,大小など、相対の世界にとらわれ縛られることとなる。
私がなければ、すべての現象をあるがままに見て平等かつ無上の、一心の価値に目覚めることができる。ここに、冒頭で記した雲門の『なぜ、どうして』の答えがある。
どんなつまらぬささいな生活の中にも、無上の一心の価値を見る。
それが、『鐘声七條』に見る世界である。

2009年9月25日金曜日

無事是れ貴人

無事是れ貴人

普通、無事の人とは、毎日面倒な問題が一切なくなり、日々平安に過ごしている人のことを言う。

しかし、単に状況が無事の人をいうもであれば、果たして貴人といえるであろうか。
貴人とは真実無事の人。

すなわち、幸不幸、平安であろうとなかろうと、いかなる人生に
あっても、平安無事の人、これが貴人だ。

このような、真に無事の人になるには、身体と心の真相に目覚め
ることが第一だ。身体も心、本来私のものではない。もとから授かった生命だ。
この身心は、生れる以前からの因縁所生のものに過ぎない。
身体は身体あるだけ。心は心あるだけ。この外特別に私があるのではない。
うれしいはただうれしい。悲しいはただ悲しい。楽しいはただ楽しい、苦しいはただ苦しい。本来、ここに私というものはない。

私がないから、喜怒哀楽は喜怒哀楽そのままが喜怒哀楽をはなれる道だ。
生老病死は生老病死そのままが、生老病死を離れる道だ。無事とはこのことだ。
日常のいかなることも、あるがままに見てとらわれず、そのまま
離れ成すべきことを成す。このような人を、無事是れ貴人という。

2009年7月17日金曜日

パーン!

パ―ン!

手を合わせて「パ―ン!」と音をたてれば、
その場の人は全員が「パ―ン」とわかる。
一人一人の顔や姿は違っても、心は一つであったということだ。

私たちは普通、「パーン」と音がすると、「パーン」と心が認識するとおもう。
実は「パーン」は、ただ「パーン」
これを認識する、別に心があるのではなかった。
「パーン」そのものが心であり、音であり、私であった。
しかし、「パ-ん」そのものは、
心とも、音とも、私とも言っていない。
あらゆる表現を超えている、もとからの一つの生命、
心こそが「パーン」なのだ。

人だけでなく、猫でも、犬でも、
そこに居れば同じく「パ-ん」とわかる。
音の世界だけではない。
見る、感じる、思う世界も、
すべてこの「パ-ん」と同じ一つの生命、心の世界であった。

この世に生を受け、「オギャ-」と叫んだ一声も、
生れる前の生も、今日の生活も、後の生も、
全てが「パーン」の世界だ。

では「パーン」とは一体何者か。

「パーン」とは無心、私なきもとからの生命のはたらきだ。
私の思いに関係なく、「パ―ン」と音がすれば「パーン」とわかる。
私生命の本体はチリ一つない、
無心の心であったということだ。

「パーン』が「パ-ん」と、そのままに全てを正しく照らしている智慧、
正しく生かさんとする慈悲の心こそが、
無心であり、生命の本体なのだ。

2009年6月1日月曜日

命を正しく生かす

命を正しく生かす

何ゆえこの世に生を受けたのか。
何ゆえにこの身体を授かったのか。

この生命の真実とは何か。

身体のことは身体を親しく知ることである。
眼・耳・鼻・舌・身・意からなる身体の、
たとえば眼。

眼の本体は眼ではない。
視界のすべての世界が本体だ。
眼はその窓にすぎない。

故に、眼は眼自身のためにあるのではない。
視界にはいる一切の世界を正しく生かすために与えられたものだ。

他についても同様だ。
一切の音、香り、味わい、身で触れ心におもう世界を、
正しく生かすために授かった宇宙的生命である。

眼・耳・鼻・舌・身・意から生ずる世界は、
宇宙そのものである。
わたくしたちの身心は本来、宇宙そのものなのだ。

一個の生命は誠に小さくはかないが、
身心の一つ一つは宇宙的生命として、
全宇宙を生かすために与えられている。

生命は私のものではない。
私たちは、宇宙から五体を授った。
全宇宙を生かすために、
私たちはこの世に生かされているということである。

2009年4月17日金曜日

自己紹介

無得龍広(むとくりゅうこう)
本名 山本幸広。1943年大坂生まれ。法政大学中退。

臨済禅の法統を継ぎ、在家禅の旗を掲げる釈迦牟尼会の第2代会長・師家無作光龍老師に、64年在学中に相見。以後、武蔵野般若道場内の淡水寮に落ち着き,同道場において参禅弁道に励む。

その間、道友とともに千日摂心を満了。80年嗣法。89年第3代会長・無門龍善老師に代わり、第4代会長に就任。
92年から03年まで一橋大学如意団禅会の師家を兼任。96年ウイ-ンの禅会と交流、提唱を行う。
著書に「すべてこの身にありー平成に生きる在家禅」(釈迦牟尼会)がある。



2009年3月30日月曜日

心よありがとう

心よありがとう

人生に意味があるのか。
ある人は意味があるという。
又ある人は、人生なんて意味がないという。
では、「意味」とは何か。

意(い)は心である。意(こころ)の味わいとの意味だ。
故に、意(こころ)がわかることが、意味がわかることだ。
わたくしたち人間は生まれるまえからの生命を頂いて生きている。
この命が意(こころ)だ。
この世に生を受け、「おぎゃあ」と泣き叫んだ。
赤子の時には赤子の世界をそのまま照らしいたのが意(こころ)だ、生命だ。
少年から青年に、青年から老年になったが、
老年は老年の世界をそのまま照らしているのが意(こころ)であり、意(こころ)の味じわいだ。

朝の世界は朝の世界を、昼の世界には昼の世界を、
二十四時間いつも休まず自らを正しく照らしている。それが意(こころ)だ。
父母といた時には父母と共に、の世界を、亡くなってからは亡くなってからの世界を、
いつもわたくしを離れず照らしているのが意(こころ)だ。大本の生命だ。

愉しい時には愉しいままに、
悲しいときには悲しいままに意(こころ)は正しく照らしている。
心よ、生命よ、ありがとう。
あなたほど大切なものはない。
これが意(こころ)の、ほんとうの味わいだ。

殺人が悪いのは、この上なく大切な意(こころ)の味わいに無知だからだ。

わたくしたちの心、大本の生命は、
たとえ地獄の底であっても、死に変わり生れ変わり、
永遠に支え守ってくれている光だ。

心よ、ありがとう。