2018年6月21日木曜日

「無字」の悩みーオランダ接心にて

五月十六日から二十五日までの十日間、布教のためオランダへ行って参りました。オランダは今回で三度目です。アムステルダム空港から二百キロ離れた海から近い田舎町にある禅リバー寺の加単者約46人の五日間の接心で提唱と室内の一人一人の指導をして参りました。その後、アムステルダムで三日宿泊、二ヶ所の禅会(一つは七十人、一つは五六十人の参加者)で提唱と質疑応答を致しました。

 禅リバー寺での室内指導では、一つの例として、一人の人から、「無字が通らず悩んでいます。どうしたらよいのでしょうか。」との質問を受け、床を「トントン」と叩き、「このもの」がわかれば答えは、向かわなくても、向こうから自然とやって来ますよ、と話したり致しました。趙州無字の公案、手も足も出ないようですが、「トントン」このものがわかれば見解は無字からやって来ます。

2018年5月5日土曜日

生まれたばかりの赤子は六識を具えているのか。


 ある日、一人の僧が趙州和尚(778-897)に、生まれたばかりの赤ん坊にも眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が具っているでしょうか、と問うた。趙州はこの問に対して、急流の水の上に手まりを投げ入れると答えた。すなわち、投げ入れた手まりは水の流れに随って転々として流れ止むことがないように赤子の心も我々と同様に暑ければ暑い、寒ければ寒いと感じ、不快であれば泣き叫ぶ。赤子が「おぎゃあー」と泣けば母は急いでかけつける。この時、泣く赤子の心とこれを聞く母の心と二つの心があると考えるが、実は「おぎゃあー」の声そのものには「おぎゃあー」の声があるだけで赤子と母の二つ心があるわけではない。一心のはたらきである。日常の転々と変わる心も、心の形は一時として同じ形はないが、本当は一心があるだけである。心そのものには本来、形はない。現象は心の影に過ぎない。この一心にめざめるのが、不変の自己の真実の生命にめざめる道でもある。「おぎゃあー」の一心である。