2010年1月25日月曜日

新春法話

新春法話
 
生命(いのち)のことは生命をみよ
 
昨年暮、たまたまテレビで、本マグロの完全養殖に農林水産大学の研究チームが苦
節三十二年の後、成功したドラマをみました。
その中で,チームリーダーであつた教授は志半ばで亡くなるのですが、生前、後進
の人たちに常に述べていたことは、「マグロのことはマグロを見よ」という教えでした。
この教えを糧として、研究者たちは挫折に遭うごとに一歩一歩これを乗り切り、つ
いに世界初の本マグロの完全養殖という画期的偉業に成功したのでした。

マグロのことはマグロを見よ、これは宗教についても同じことが言えます。日本で
は宗教というと、何か近寄り難いもの、私たちの生活とはかけ離れたもののように見
られがちです。
仏教でいう宗教とは大本、根本の教えということです。私たちの大本、根本とは私
たちの生命のことです。生命(心)の真相に正しく目覚めることが宗教です。

宗教は生活とかけ離れたものどころか、生活そのもの、生命そのものであったのです。
教授の言葉を借りるならば、生命に正しく目覚めるには「生命のことは生命を見よ」
ということができましよう。生きるとは、人生の目的とは、真の拠りどころとは何か。
このような生命の問題は、結局生命に正しく目覚める以外にはありません。

では、宗教(生命)に正しく目覚めるとはどういうことか。生命とは宇宙そのもの
です。これを証明しているのが心です。即ち、心とは一切の現象そのものであり、現象そのものの証明です。

般若心経の冒頭の「観自在」とは、自ら在るを見るということです。
この世のありとあらゆる現象世界が自分の世界であると目覚めたということです。
これは正に心そのもののことです。

すべての世界が自分自身の世界であった。私たちの生命(心)とはなんと豊かで貴
いことでしょう。近年我が国では、年間三万人もの人が自殺していると報じられています。受け難き人の身を授けられながら、この上なき価値ある仏としての生命に目覚めないで、自ら生命を絶つことは誠に残念なことです。それ故、生命(心)に正しく目覚める必要があります。

ここで、心について考える時、不思議な思いが致します。心は美しいものも醜いも
のも、平等にそのまま照らします。甘味な香りも、嫌悪な香りも、差別なくそのまま
照らします。心は本来私なく、無心であったということです。いかなる現象も、私自
身の好き嫌いに善悪に関係なく、あるがまま正しく証明しているのが心の本体であった
ということです。
愉しい時には愉しいまま、悲しい時には悲しいまま、心はあるがままにはたらきます。
私の思いに関係なく、全てをあるがままに正しく証明しているのが心の真実であるということです。

ではどうして、心はこのようにあるがままに働くのでしようか。私の立場から心を
見れば、善悪、好嫌の有心と思うでしょうが、心そのものの本体は無心であり、精神
的・物質的な一切の現象をあるがままに見て平等にてらしています。
この世の一切を正しく生かさんとする無上の智慧と慈悲の結晶であるということです。

私たちの根本生命(心の真相)は、幸不幸にかかわらず、生きようと死のうと常に
この生命を正しく照らし見守っている光です。このような無上の価値は他にありま
せん。私たちは心という即近の無上の価値ある生命の真只中に常にあることに気がつ
かぬだけです。

坐禅で坐るというのは生命の根本である、無心の心に坐るということです。坐るこ
とによって無心にめざめ、とらわれのない無心の心で一切を生かしてゆくことが、生
命を正しく見ることです。「生命のことは生命を見よ」、ここに生命の真実、全ての教
えの大本である宗教があります。