ある日、一人の僧が趙州和尚(778-897)に、生まれたばかりの赤ん坊にも眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が具っているでしょうか、と問うた。趙州はこの問に対して、急流の水の上に手まりを投げ入れると答えた。すなわち、投げ入れた手まりは水の流れに随って転々として流れ止むことがないように赤子の心も我々と同様に暑ければ暑い、寒ければ寒いと感じ、不快であれば泣き叫ぶ。赤子が「おぎゃあー」と泣けば母は急いでかけつける。この時、泣く赤子の心とこれを聞く母の心と二つの心があると考えるが、実は「おぎゃあー」の声そのものには「おぎゃあー」の声があるだけで赤子と母の二つ心があるわけではない。一心のはたらきである。日常の転々と変わる心も、心の形は一時として同じ形はないが、本当は一心があるだけである。心そのものには本来、形はない。現象は心の影に過ぎない。この一心にめざめるのが、不変の自己の真実の生命にめざめる道でもある。「おぎゃあー」の一心である。