2019年4月3日水曜日

声前の一句


声前の一句、千聖不伝。
声になる前の一句とは何者か。
この一句は釈迦以来歴代の祖師方も伝えることができぬという。
「ひとーつ」と称えると、称えるそのまま「ひとーつ」と心がはたらく。
この心のはたらきは私が作り上げたはたらきではない。
このものから来ているものである。
このものは捕えることはできぬが、このものがなくては「ひとーつ」は生まれぬ。
父母も生まれぬ先の自己の真実である。

2019年3月1日金曜日

宇宙一杯の人生


宇宙は宇宙にあらず、これを宇宙と言う。
われわれは日常生活に於いて宇宙を認識しているであろうか。
多分認識していないであろう。
しかし、見聞覚知、行住坐臥の全生活は宇宙そのもの以外の何者もない。
生も死も宇宙そのものである。
われわれは生きようと死のうとどこへも行かぬ。
生や全機源、死や全機源、宇宙そのもののはたらきである。
すべては宇宙一杯、何の不足があろうか。
見聞覚知は見聞覚知、行住坐臥は行住坐臥に正しく随って行けばよい。
ただそれだけのことだ。
机を拳でトーンと打てばトーン、宇宙一杯である。

2019年1月31日木曜日

鐘声


鐘が「ゴーン」と鳴れば近くに居る人は皆「ゴーン」が「ゴーン」とわかる。
 この他何者があるか。
 「ゴーン」の音声に仏教もキリスト教もイスラム教もない。しかも、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、無神論者、唯物論者も皆「ゴーン」が「ゴーン」とわかる。
 宗教とは特別な教えではない。
 「ゴーン」が「ゴーン」とわかる自己の根本(真実)にめざめることである。

2018年11月1日木曜日

平等と差別


平等そのまま差別、差別そのままが平等である。

心と現象について、人は一切の現象を認める心が別にあると思っている。
この考えが自我を認め差別の世界に縛られる迷いの原因である。
実は現象と心は本来一つである。しかも現象は心の一時の借りの宿であって
心そのものには本来姿形はない。悟りというもただこの一つ心(正しい心)
にめざめるに過ぎない。

臨済禅では伝統的に正身端坐して腹式呼吸に合わせて一から十まで数をかぞえ
心を整える行法がある。ひとーつと数を念ずれば念じたそのままに心ははたらく。
二から十までも同様である。数を認識しようと思わぬとも念じたそのまま、
あるがままに心ははたらく。

これが現象と心が本来一つである証である。

見聞覚知は見聞覚知、行住坐臥は行住坐臥そのまま、あるがままに心ははたらく。
これは人が生まれてから得た後得智のはたらきではない。後得智を後得智として
そのまま、あるがままにはたらく平等性智(一心)のはたらきである。

日常生活の根底に一心の正しい智慧と慈悲の光明があって初めて人は生活できる。

2018年7月11日水曜日

仏法に東西はない―オランダ接心にて②


 この五月のオランダの布教がご縁となって、八月の不二般若道場の大接心にヨーロッパから二人の方が、又秋には独り接心に参加の予定とのことである。

 オランダでは十日間滞在、三か所で話しをしましたが、禅仏教に対するあちらの方々の熱意には毎日感動の連続でした。

 たとえばオランダの禅リバー寺での私の提唱後、大衆からいろいろな質問に応答したその中で、一人の若い女性が、「私には菩提心がありません」と涙ながらに語りました。これに私は、「あなたが菩提心がないと切実に思われていることが菩提心があるということです。
オランダの皆さんも日本人も菩提心に全く変わりはありません」と答えました。

2018年6月21日木曜日

「無字」の悩みーオランダ接心にて

五月十六日から二十五日までの十日間、布教のためオランダへ行って参りました。オランダは今回で三度目です。アムステルダム空港から二百キロ離れた海から近い田舎町にある禅リバー寺の加単者約46人の五日間の接心で提唱と室内の一人一人の指導をして参りました。その後、アムステルダムで三日宿泊、二ヶ所の禅会(一つは七十人、一つは五六十人の参加者)で提唱と質疑応答を致しました。

 禅リバー寺での室内指導では、一つの例として、一人の人から、「無字が通らず悩んでいます。どうしたらよいのでしょうか。」との質問を受け、床を「トントン」と叩き、「このもの」がわかれば答えは、向かわなくても、向こうから自然とやって来ますよ、と話したり致しました。趙州無字の公案、手も足も出ないようですが、「トントン」このものがわかれば見解は無字からやって来ます。

2018年5月5日土曜日

生まれたばかりの赤子は六識を具えているのか。


 ある日、一人の僧が趙州和尚(778-897)に、生まれたばかりの赤ん坊にも眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が具っているでしょうか、と問うた。趙州はこの問に対して、急流の水の上に手まりを投げ入れると答えた。すなわち、投げ入れた手まりは水の流れに随って転々として流れ止むことがないように赤子の心も我々と同様に暑ければ暑い、寒ければ寒いと感じ、不快であれば泣き叫ぶ。赤子が「おぎゃあー」と泣けば母は急いでかけつける。この時、泣く赤子の心とこれを聞く母の心と二つの心があると考えるが、実は「おぎゃあー」の声そのものには「おぎゃあー」の声があるだけで赤子と母の二つ心があるわけではない。一心のはたらきである。日常の転々と変わる心も、心の形は一時として同じ形はないが、本当は一心があるだけである。心そのものには本来、形はない。現象は心の影に過ぎない。この一心にめざめるのが、不変の自己の真実の生命にめざめる道でもある。「おぎゃあー」の一心である。