百丈野狐
或る日、百丈禅師が提唱した後、一人の老人が、他の者が去ってもいっまでも引き下がらなかったので、師が「お前さんは何者か」と問うと、其の老人は、「私は人間ではありません。大昔、この百丈山の前の住職でした。
あるとき、一人の僧が『悟った人は因果に落ちますか、落ちませんか』と問いました。
私は『不落因果』(因果に落ちません)と答えたために、五百生野狐となってしまったのです。どうか和尚、私のために一転語を与え、野狐の身から脱せしめて下さい。」と。
そして老人は百丈禅師に問うた。「大悟した人は因果に落ちますか、落ちませんか。」
師はいった。「不昧因果(因果を昧まさない)。」と。
老人は忽ち悟り、野狐の身を脱した。(『無門関』第二即)
因果の穴に落ちるのを野狐といい、因果の穴より出ずるを野狐を脱すという。
野狐とは因果と自己を二つに見て因果に縛られ、因果について回って真の自己を見失つている人の姿であり、偽りの人生のことである。
野狐を脱すとは、因果に縛られず自在を得ている人生である。
この世は因縁の世界である。因果を離れては何者も存在しない。私があって因果があるのではない。因果が私である。因果が私とわかれば、右手がが右手をとらえぬことができぬように、因果によって縛られる私はなくなり、行かんと要せばすなわち行き、坐せんと要せばすなわち坐す。因果は因果によって因果を自由自在に変えることができる。
ここに野狐に落ちない、野狐を脱する本物の人生がある。
2010年3月29日月曜日
2010年1月25日月曜日
新春法話
新春法話
生命(いのち)のことは生命をみよ
昨年暮、たまたまテレビで、本マグロの完全養殖に農林水産大学の研究チームが苦
節三十二年の後、成功したドラマをみました。
その中で,チームリーダーであつた教授は志半ばで亡くなるのですが、生前、後進
の人たちに常に述べていたことは、「マグロのことはマグロを見よ」という教えでした。
この教えを糧として、研究者たちは挫折に遭うごとに一歩一歩これを乗り切り、つ
いに世界初の本マグロの完全養殖という画期的偉業に成功したのでした。
マグロのことはマグロを見よ、これは宗教についても同じことが言えます。日本で
は宗教というと、何か近寄り難いもの、私たちの生活とはかけ離れたもののように見
られがちです。
仏教でいう宗教とは大本、根本の教えということです。私たちの大本、根本とは私
たちの生命のことです。生命(心)の真相に正しく目覚めることが宗教です。
宗教は生活とかけ離れたものどころか、生活そのもの、生命そのものであったのです。
教授の言葉を借りるならば、生命に正しく目覚めるには「生命のことは生命を見よ」
ということができましよう。生きるとは、人生の目的とは、真の拠りどころとは何か。
このような生命の問題は、結局生命に正しく目覚める以外にはありません。
では、宗教(生命)に正しく目覚めるとはどういうことか。生命とは宇宙そのもの
です。これを証明しているのが心です。即ち、心とは一切の現象そのものであり、現象そのものの証明です。
般若心経の冒頭の「観自在」とは、自ら在るを見るということです。
この世のありとあらゆる現象世界が自分の世界であると目覚めたということです。
これは正に心そのもののことです。
すべての世界が自分自身の世界であった。私たちの生命(心)とはなんと豊かで貴
いことでしょう。近年我が国では、年間三万人もの人が自殺していると報じられています。受け難き人の身を授けられながら、この上なき価値ある仏としての生命に目覚めないで、自ら生命を絶つことは誠に残念なことです。それ故、生命(心)に正しく目覚める必要があります。
ここで、心について考える時、不思議な思いが致します。心は美しいものも醜いも
のも、平等にそのまま照らします。甘味な香りも、嫌悪な香りも、差別なくそのまま
照らします。心は本来私なく、無心であったということです。いかなる現象も、私自
身の好き嫌いに善悪に関係なく、あるがまま正しく証明しているのが心の本体であった
ということです。
愉しい時には愉しいまま、悲しい時には悲しいまま、心はあるがままにはたらきます。
私の思いに関係なく、全てをあるがままに正しく証明しているのが心の真実であるということです。
ではどうして、心はこのようにあるがままに働くのでしようか。私の立場から心を
見れば、善悪、好嫌の有心と思うでしょうが、心そのものの本体は無心であり、精神
的・物質的な一切の現象をあるがままに見て平等にてらしています。
この世の一切を正しく生かさんとする無上の智慧と慈悲の結晶であるということです。
私たちの根本生命(心の真相)は、幸不幸にかかわらず、生きようと死のうと常に
この生命を正しく照らし見守っている光です。このような無上の価値は他にありま
せん。私たちは心という即近の無上の価値ある生命の真只中に常にあることに気がつ
かぬだけです。
坐禅で坐るというのは生命の根本である、無心の心に坐るということです。坐るこ
とによって無心にめざめ、とらわれのない無心の心で一切を生かしてゆくことが、生
命を正しく見ることです。「生命のことは生命を見よ」、ここに生命の真実、全ての教
えの大本である宗教があります。
生命(いのち)のことは生命をみよ
昨年暮、たまたまテレビで、本マグロの完全養殖に農林水産大学の研究チームが苦
節三十二年の後、成功したドラマをみました。
その中で,チームリーダーであつた教授は志半ばで亡くなるのですが、生前、後進
の人たちに常に述べていたことは、「マグロのことはマグロを見よ」という教えでした。
この教えを糧として、研究者たちは挫折に遭うごとに一歩一歩これを乗り切り、つ
いに世界初の本マグロの完全養殖という画期的偉業に成功したのでした。
マグロのことはマグロを見よ、これは宗教についても同じことが言えます。日本で
は宗教というと、何か近寄り難いもの、私たちの生活とはかけ離れたもののように見
られがちです。
仏教でいう宗教とは大本、根本の教えということです。私たちの大本、根本とは私
たちの生命のことです。生命(心)の真相に正しく目覚めることが宗教です。
宗教は生活とかけ離れたものどころか、生活そのもの、生命そのものであったのです。
教授の言葉を借りるならば、生命に正しく目覚めるには「生命のことは生命を見よ」
ということができましよう。生きるとは、人生の目的とは、真の拠りどころとは何か。
このような生命の問題は、結局生命に正しく目覚める以外にはありません。
では、宗教(生命)に正しく目覚めるとはどういうことか。生命とは宇宙そのもの
です。これを証明しているのが心です。即ち、心とは一切の現象そのものであり、現象そのものの証明です。
般若心経の冒頭の「観自在」とは、自ら在るを見るということです。
この世のありとあらゆる現象世界が自分の世界であると目覚めたということです。
これは正に心そのもののことです。
すべての世界が自分自身の世界であった。私たちの生命(心)とはなんと豊かで貴
いことでしょう。近年我が国では、年間三万人もの人が自殺していると報じられています。受け難き人の身を授けられながら、この上なき価値ある仏としての生命に目覚めないで、自ら生命を絶つことは誠に残念なことです。それ故、生命(心)に正しく目覚める必要があります。
ここで、心について考える時、不思議な思いが致します。心は美しいものも醜いも
のも、平等にそのまま照らします。甘味な香りも、嫌悪な香りも、差別なくそのまま
照らします。心は本来私なく、無心であったということです。いかなる現象も、私自
身の好き嫌いに善悪に関係なく、あるがまま正しく証明しているのが心の本体であった
ということです。
愉しい時には愉しいまま、悲しい時には悲しいまま、心はあるがままにはたらきます。
私の思いに関係なく、全てをあるがままに正しく証明しているのが心の真実であるということです。
ではどうして、心はこのようにあるがままに働くのでしようか。私の立場から心を
見れば、善悪、好嫌の有心と思うでしょうが、心そのものの本体は無心であり、精神
的・物質的な一切の現象をあるがままに見て平等にてらしています。
この世の一切を正しく生かさんとする無上の智慧と慈悲の結晶であるということです。
私たちの根本生命(心の真相)は、幸不幸にかかわらず、生きようと死のうと常に
この生命を正しく照らし見守っている光です。このような無上の価値は他にありま
せん。私たちは心という即近の無上の価値ある生命の真只中に常にあることに気がつ
かぬだけです。
坐禅で坐るというのは生命の根本である、無心の心に坐るということです。坐るこ
とによって無心にめざめ、とらわれのない無心の心で一切を生かしてゆくことが、生
命を正しく見ることです。「生命のことは生命を見よ」、ここに生命の真実、全ての教
えの大本である宗教があります。
2009年11月16日月曜日
鐘声七條
鐘声七條
世界は実に広々としている。
では、どうして鐘の合図で七條の袈裟を着るのか、の意である。(無門関、第十六則)
この句は雲門禅師の言葉である。
宇宙は広大無辺であり、一方日常生活は,服を着替えたり食事をしたり、平凡なことの連続である。宇宙に比すれば、行住坐臥,見聞覚知、喜怒哀楽など一つ一つの人生は取るに足りぬちっぽけなものに思われる。
僧堂では箸の上げ下ろしから読経の一言一句まで厳しく指導される。これも宇宙の広大に比すれば、たいしたことではない。栄枯盛衰、毀誉褒貶はこの世の常。では、人生の本当の価値とは.雲門の句は、この答えを示していると思われる。
広大無辺の宇宙も一心の中であり、日常の細々とした生活のすべても一心の中ある。
宇宙は広大ですばらしく、日常生活はちっぽけで見劣りするというならば、どちらも一心に於いて同質同量であるのに、おかしいではないか。一心の本心に背いているといえる。
では一心とは何者か。見聞覚知はただ見聞覚知,行住坐臥はただ行住坐臥、喜怒哀楽はただ喜怒哀楽だけで,この他に一物なきことに目覚めることである。当然、そのものには私もなければ、心としてとらえるものもない。これが真の私であり、真の心である。即ち、
無の心、無心ということである。
一心の世界の外にこれを認識するもう一つの心『私』があると思うから、善悪,大小など、相対の世界にとらわれ縛られることとなる。
私がなければ、すべての現象をあるがままに見て平等かつ無上の、一心の価値に目覚めることができる。ここに、冒頭で記した雲門の『なぜ、どうして』の答えがある。
どんなつまらぬささいな生活の中にも、無上の一心の価値を見る。
それが、『鐘声七條』に見る世界である。
世界は実に広々としている。
では、どうして鐘の合図で七條の袈裟を着るのか、の意である。(無門関、第十六則)
この句は雲門禅師の言葉である。
宇宙は広大無辺であり、一方日常生活は,服を着替えたり食事をしたり、平凡なことの連続である。宇宙に比すれば、行住坐臥,見聞覚知、喜怒哀楽など一つ一つの人生は取るに足りぬちっぽけなものに思われる。
僧堂では箸の上げ下ろしから読経の一言一句まで厳しく指導される。これも宇宙の広大に比すれば、たいしたことではない。栄枯盛衰、毀誉褒貶はこの世の常。では、人生の本当の価値とは.雲門の句は、この答えを示していると思われる。
広大無辺の宇宙も一心の中であり、日常の細々とした生活のすべても一心の中ある。
宇宙は広大ですばらしく、日常生活はちっぽけで見劣りするというならば、どちらも一心に於いて同質同量であるのに、おかしいではないか。一心の本心に背いているといえる。
では一心とは何者か。見聞覚知はただ見聞覚知,行住坐臥はただ行住坐臥、喜怒哀楽はただ喜怒哀楽だけで,この他に一物なきことに目覚めることである。当然、そのものには私もなければ、心としてとらえるものもない。これが真の私であり、真の心である。即ち、
無の心、無心ということである。
一心の世界の外にこれを認識するもう一つの心『私』があると思うから、善悪,大小など、相対の世界にとらわれ縛られることとなる。
私がなければ、すべての現象をあるがままに見て平等かつ無上の、一心の価値に目覚めることができる。ここに、冒頭で記した雲門の『なぜ、どうして』の答えがある。
どんなつまらぬささいな生活の中にも、無上の一心の価値を見る。
それが、『鐘声七條』に見る世界である。
2009年9月25日金曜日
無事是れ貴人
無事是れ貴人
普通、無事の人とは、毎日面倒な問題が一切なくなり、日々平安に過ごしている人のことを言う。
しかし、単に状況が無事の人をいうもであれば、果たして貴人といえるであろうか。
貴人とは真実無事の人。
すなわち、幸不幸、平安であろうとなかろうと、いかなる人生に
あっても、平安無事の人、これが貴人だ。
このような、真に無事の人になるには、身体と心の真相に目覚め
ることが第一だ。身体も心、本来私のものではない。もとから授かった生命だ。
この身心は、生れる以前からの因縁所生のものに過ぎない。
身体は身体あるだけ。心は心あるだけ。この外特別に私があるのではない。
うれしいはただうれしい。悲しいはただ悲しい。楽しいはただ楽しい、苦しいはただ苦しい。本来、ここに私というものはない。
私がないから、喜怒哀楽は喜怒哀楽そのままが喜怒哀楽をはなれる道だ。
生老病死は生老病死そのままが、生老病死を離れる道だ。無事とはこのことだ。
日常のいかなることも、あるがままに見てとらわれず、そのまま
離れ成すべきことを成す。このような人を、無事是れ貴人という。
普通、無事の人とは、毎日面倒な問題が一切なくなり、日々平安に過ごしている人のことを言う。
しかし、単に状況が無事の人をいうもであれば、果たして貴人といえるであろうか。
貴人とは真実無事の人。
すなわち、幸不幸、平安であろうとなかろうと、いかなる人生に
あっても、平安無事の人、これが貴人だ。
このような、真に無事の人になるには、身体と心の真相に目覚め
ることが第一だ。身体も心、本来私のものではない。もとから授かった生命だ。
この身心は、生れる以前からの因縁所生のものに過ぎない。
身体は身体あるだけ。心は心あるだけ。この外特別に私があるのではない。
うれしいはただうれしい。悲しいはただ悲しい。楽しいはただ楽しい、苦しいはただ苦しい。本来、ここに私というものはない。
私がないから、喜怒哀楽は喜怒哀楽そのままが喜怒哀楽をはなれる道だ。
生老病死は生老病死そのままが、生老病死を離れる道だ。無事とはこのことだ。
日常のいかなることも、あるがままに見てとらわれず、そのまま
離れ成すべきことを成す。このような人を、無事是れ貴人という。
2009年7月17日金曜日
パーン!
パ―ン!
手を合わせて「パ―ン!」と音をたてれば、
その場の人は全員が「パ―ン」とわかる。
一人一人の顔や姿は違っても、心は一つであったということだ。
私たちは普通、「パーン」と音がすると、「パーン」と心が認識するとおもう。
実は「パーン」は、ただ「パーン」
これを認識する、別に心があるのではなかった。
「パーン」そのものが心であり、音であり、私であった。
しかし、「パ-ん」そのものは、
心とも、音とも、私とも言っていない。
あらゆる表現を超えている、もとからの一つの生命、
心こそが「パーン」なのだ。
人だけでなく、猫でも、犬でも、
そこに居れば同じく「パ-ん」とわかる。
音の世界だけではない。
見る、感じる、思う世界も、
すべてこの「パ-ん」と同じ一つの生命、心の世界であった。
この世に生を受け、「オギャ-」と叫んだ一声も、
生れる前の生も、今日の生活も、後の生も、
全てが「パーン」の世界だ。
では「パーン」とは一体何者か。
「パーン」とは無心、私なきもとからの生命のはたらきだ。
私の思いに関係なく、「パ―ン」と音がすれば「パーン」とわかる。
私生命の本体はチリ一つない、
無心の心であったということだ。
「パーン』が「パ-ん」と、そのままに全てを正しく照らしている智慧、
正しく生かさんとする慈悲の心こそが、
無心であり、生命の本体なのだ。
手を合わせて「パ―ン!」と音をたてれば、
その場の人は全員が「パ―ン」とわかる。
一人一人の顔や姿は違っても、心は一つであったということだ。
私たちは普通、「パーン」と音がすると、「パーン」と心が認識するとおもう。
実は「パーン」は、ただ「パーン」
これを認識する、別に心があるのではなかった。
「パーン」そのものが心であり、音であり、私であった。
しかし、「パ-ん」そのものは、
心とも、音とも、私とも言っていない。
あらゆる表現を超えている、もとからの一つの生命、
心こそが「パーン」なのだ。
人だけでなく、猫でも、犬でも、
そこに居れば同じく「パ-ん」とわかる。
音の世界だけではない。
見る、感じる、思う世界も、
すべてこの「パ-ん」と同じ一つの生命、心の世界であった。
この世に生を受け、「オギャ-」と叫んだ一声も、
生れる前の生も、今日の生活も、後の生も、
全てが「パーン」の世界だ。
では「パーン」とは一体何者か。
「パーン」とは無心、私なきもとからの生命のはたらきだ。
私の思いに関係なく、「パ―ン」と音がすれば「パーン」とわかる。
私生命の本体はチリ一つない、
無心の心であったということだ。
「パーン』が「パ-ん」と、そのままに全てを正しく照らしている智慧、
正しく生かさんとする慈悲の心こそが、
無心であり、生命の本体なのだ。
2009年6月1日月曜日
命を正しく生かす
命を正しく生かす
何ゆえこの世に生を受けたのか。
何ゆえにこの身体を授かったのか。
この生命の真実とは何か。
身体のことは身体を親しく知ることである。
眼・耳・鼻・舌・身・意からなる身体の、
たとえば眼。
眼の本体は眼ではない。
視界のすべての世界が本体だ。
眼はその窓にすぎない。
故に、眼は眼自身のためにあるのではない。
視界にはいる一切の世界を正しく生かすために与えられたものだ。
他についても同様だ。
一切の音、香り、味わい、身で触れ心におもう世界を、
正しく生かすために授かった宇宙的生命である。
眼・耳・鼻・舌・身・意から生ずる世界は、
宇宙そのものである。
わたくしたちの身心は本来、宇宙そのものなのだ。
一個の生命は誠に小さくはかないが、
身心の一つ一つは宇宙的生命として、
全宇宙を生かすために与えられている。
生命は私のものではない。
私たちは、宇宙から五体を授った。
全宇宙を生かすために、
私たちはこの世に生かされているということである。
何ゆえこの世に生を受けたのか。
何ゆえにこの身体を授かったのか。
この生命の真実とは何か。
身体のことは身体を親しく知ることである。
眼・耳・鼻・舌・身・意からなる身体の、
たとえば眼。
眼の本体は眼ではない。
視界のすべての世界が本体だ。
眼はその窓にすぎない。
故に、眼は眼自身のためにあるのではない。
視界にはいる一切の世界を正しく生かすために与えられたものだ。
他についても同様だ。
一切の音、香り、味わい、身で触れ心におもう世界を、
正しく生かすために授かった宇宙的生命である。
眼・耳・鼻・舌・身・意から生ずる世界は、
宇宙そのものである。
わたくしたちの身心は本来、宇宙そのものなのだ。
一個の生命は誠に小さくはかないが、
身心の一つ一つは宇宙的生命として、
全宇宙を生かすために与えられている。
生命は私のものではない。
私たちは、宇宙から五体を授った。
全宇宙を生かすために、
私たちはこの世に生かされているということである。
2009年4月17日金曜日
自己紹介
無得龍広(むとくりゅうこう)
本名 山本幸広。1943年大坂生まれ。法政大学中退。
臨済禅の法統を継ぎ、在家禅の旗を掲げる釈迦牟尼会の第2代会長・師家無作光龍老師に、64年在学中に相見。以後、武蔵野般若道場内の淡水寮に落ち着き,同道場において参禅弁道に励む。
その間、道友とともに千日摂心を満了。80年嗣法。89年第3代会長・無門龍善老師に代わり、第4代会長に就任。
92年から03年まで一橋大学如意団禅会の師家を兼任。96年ウイ-ンの禅会と交流、提唱を行う。
著書に「すべてこの身にありー平成に生きる在家禅」(釈迦牟尼会)がある。
本名 山本幸広。1943年大坂生まれ。法政大学中退。
臨済禅の法統を継ぎ、在家禅の旗を掲げる釈迦牟尼会の第2代会長・師家無作光龍老師に、64年在学中に相見。以後、武蔵野般若道場内の淡水寮に落ち着き,同道場において参禅弁道に励む。
その間、道友とともに千日摂心を満了。80年嗣法。89年第3代会長・無門龍善老師に代わり、第4代会長に就任。
92年から03年まで一橋大学如意団禅会の師家を兼任。96年ウイ-ンの禅会と交流、提唱を行う。
著書に「すべてこの身にありー平成に生きる在家禅」(釈迦牟尼会)がある。
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