貪瞋痴
貪瞋痴の三毒は戒定慧の三学と対称となる言葉であり、貪(むさぼり)の心、瞋(いかり)の心、痴(迷妄)の心のことである。だとすると、貪瞋痴は悪い心であり、戒定慧は正しい心と考えがちである。果たしてそうであろうか。
貪心は生きる力だ。瞋心は善心を呼び起こす力だ。痴心は正しい智慧を生ずる力だ。
決局、三毒は人生を生かす根源的な力ということだ。貪瞋痴は悪ではない。仏教はこれをそのまま戒定慧に転ずるはたらきがある。
言わば貪瞋痴は戒定慧の生母であり、貪瞋痴がなくなって戒定慧となるのではない。
仏教の理想である涅槃寂静の境地が文字通り一切の煩悩の消滅であるならば、いわゆる出家人のように、山に入り人と交わらず、木の実を食とし、戒律を守り禅定を修し、とらわれのない心で生涯を全うするか、あるいは肉体的死をもつて良しとするであろう。しかし、それはただ外境を断ち、臭いものに蓋をするだけであり、根源的解決ではない。
釈迦が悟りを開かれ、山に留まらず人間世界に下られたのもこの故である。
貪瞋痴そのものに私はない。私がないとわかると、貪そのまま、瞋そのまま、痴そのまま、貪瞋痴を離れることができる。
この智慧に目覚めるのが仏教の肝心要(かなめ)のところである。外境を断って貪瞋痴の煩悩を離れるのではなく、普通の人間生活の中で貪瞋痴そのまま貪瞋痴を離れるのが真の涅槃寂静である。そして、貪瞋痴そのまま離れ貪瞋痴を正しく生かして行くのが戒定慧である。従って釈迦は下山されることにより、仏教は真実在家仏教となったといえる。
煩悩世界そのままが在家であり、そのまま離れるのが真の出家である。すなわち、仏教は在家の出家なのである。在家仏教とは素人の仏教ではない。仏教の本旨である。