はなれる
しばしばテレビに映し出される東日本大地震の津波の惨状は、正に地獄絵そのものである。このような予期せぬ災いは、その形態は違ってもわれわれの人生に於いて、何時何処で起こっても不思議ではない。それ故日頃から、非常の事態に遭っても自らを見失わない修養が大切である。
臨済禅師は、「三途地獄に入りても園観に遊ぶが如し」と述べている。
三途とは地獄餓鬼畜生の三悪道の世界であり、その中にあってもまるで花園の世界に遊ぶが如く平気の平左であるという。これは一体どのような心境なのか、篤と考えてみようと思う。
禅の立場から考えると、坐禅中いろいろな念が次々と浮かんでくる。一般に無心と言うと何も思わないことのように思われている。何も思わぬことが無心ならば、睡眠薬を飲んで熟睡すれば無心になることができる。だが、それでは意識がなくなると言うに過ぎぬ。坐禅で言う無心とは心が無いのではなく、私無き心である。念そのまま念を離れることだ。
坐禅中念が生じてきたら、生じるそのままでその念に付いて回らない。すると念は自然にあるがまま生じてあるがまま自然に止む。無心とはこのことを言う。
例えば、暑い時には暑いそのまま、寒い時は寒いそのまま心は働く。だから、心には本来私は全くない。私無き心、即ち無心が心の真実であるということだ。故に、暑いそのままで暑いに付いて回る私心がなければ、暑いそのまま暑いを離れることになる。これがわれわれの生命の真実にめざめるということだ。
暑いは暑い、寒いは寒い、そのままあるがままの無念無想の生命の真実に目覚めるだけである。あるがままに全て、余ることなく欠くることなく足りていて、そのまま離れている、即ち、解脱の生命の本体に帰るだけのことである。
いかなる地獄の苦しみの中にあっても、苦しみはただ苦しみあるのみで、一点の私もない。それ故、苦しみそのままが苦しみを離れる最良の道である。
「地獄に入ること園観に遊ぶが如し」とはこのことわりを述べている。