2013年3月3日日曜日

祈りと覚

祈りと覚

                             
仏像を拝むは祈りである。
経文を読誦するも祈りである。
われわれは祈りによって心安らぎ、力を得る。祈りは生きる力である。

ところで、仏像を拝む、経文を読誦するとはどういうことだろうか。
この五月十五日に、品川の桐ヶ谷寺で、前角博雄大和尚の十七回忌法要に参列させていただいた。同じ師、苧坂光龍老師門下で、私にとっては法兄にあたる方だ。内輪だけとのことだったが、僧侶、檀信徒合わせて約百名が参堂し営まれた。導師は前角老師の孫弟子にあたるオランダ禅川寺住職天慶コペンズ老師だった。

前角老師は、若くして曹洞宗の布教僧となって米国に渡り、生涯を彼の地で、禅仏教の挙揚に捧げられた。その法の継承者は多数あり、今日米国全土のみならず、ヨーロッパにまで老師の法脈は広まっている。
今回、法要に参列し、列席者の話から老師が米国への布教を決意された初一念の祈りが、今日の欧米にまたがる禅仏教の開花を生んだとの感銘を受けた。
しかし、祈りは、単に祈りだけでは目的は達成できない。老師が長年月、安谷、苧坂両老師の直下で参究練磨された覚があってこそ成就されたのである。

木仏金仏は、単にわれわれの生命の真実である完全円満な仏の大人格の象徴に過ぎぬ。同じく経文も、釈迦の悟りそのものではなく、その教えに過ぎぬ。要は、仏像も経文も、真実の仏、仏の悟りを人々に覚めさせたいとのわれわれの根本の生命の祈りから生まれたものである。であるから、仏像と経文の使命は、祈りがそのまま覚となることによって成就する。では、祈りがそのまま覚となるとはどういうことか。それは、礼拝と読誦の中にも、仏心があるということだ。

六祖慧能は述べている。経文はただ誦するだけでは画に描いた餅であり、腹を満たすことにはならない、心に行うことが大事であると。
心に行うとは仏心に行うということである。仏心とは無心の心である。だから、心に行うとは無心に行うことである。無心とは心がないのではなく私無き心である。礼拝の時はただ一心に礼拝して、その心に私がない、読経の時も同様に一心に読経してその心に私がない。この時礼拝する姿がそのまま仏の姿であり、読経する心がそのまま、仏の悟り心となる。これが、祈りが覚となるということである。