2013年3月3日日曜日

丹田気海

丹田気海


最近改めて、丹田気海を練ることの大切さを痛感している。
では、丹田、気海とは何か。漢和辞典には、「丹田は臍下四から五センチのところをいい、体気をここに集むれぱ心散乱せず、思惟に適する」とあり、気海については「臍下四から五センチのところで呼吸の根本のところ」とある。

要するに、丹田も気海も名前は異なるが、下腹の呼吸の根本、気の集中するところを指している。更に言えば、丹田とは丹(まごころ、赤心)の田(田地)、即ちまごころの田地、気海とは気(空気、宇宙の気)の海(大海)即ち宇宙の気の大海原である。

苧坂光龍先生は、「呼く息は丹田に、吸う息は気海に」とよく述べておられた。では、具体的にどのように行うのかというと、呼吸は鼻で行う。息を呼く時は臍の上から下の方に腹をすぼめてゆく。七、八分通り呼いたところで吸う息に移る。吸う時はこれと反対に、力を抜いて下から上へとふくらませてゆく。これが丹田(気海)呼吸である。この時の腹の状態は、丁度錐で穴を開けたゴムボールを手で握り、徐々に圧迫して空気を出し、ある程度出したところで今度は手の力を抜いてゆくと、徐々に膨らんで元へ戻るのと同じ要領である。呼く時は腹を臍の上から下腹へとへこませてゆくが、上から下へと気が集中して行く下腹のところが丹田であり、吸う時下から上へと膨らみながら、鼻から入った空気が下腹の方へと満ちて行くところが気海である。

初めは要領を得ないが、毎日続けていると丹田気海の絶妙の味わいというものがわかってくる。呼く息、吸う息で、ひと1つ、ふた1つと数を念ずる場合でも、あせらず、無理をせず続けることである。初めは念ずる力が弱くても、回を重ねるごとに強まってゆくことがわかる。多くの古人がこの練丹の法によってお悟りを開かれた。無理はせず。油断なく、諦めずに続けることである。

道に入るための方便として、丹田呼吸は誠に素晴らしい。「呼く息は丹田に、吸う息は気海に」は丹田呼吸の要である。

はなれる

はなれる

しばしばテレビに映し出される東日本大地震の津波の惨状は、正に地獄絵そのものである。このような予期せぬ災いは、その形態は違ってもわれわれの人生に於いて、何時何処で起こっても不思議ではない。それ故日頃から、非常の事態に遭っても自らを見失わない修養が大切である。

臨済禅師は、「三途地獄に入りても園観に遊ぶが如し」と述べている。
三途とは地獄餓鬼畜生の三悪道の世界であり、その中にあってもまるで花園の世界に遊ぶが如く平気の平左であるという。これは一体どのような心境なのか、篤と考えてみようと思う。

禅の立場から考えると、坐禅中いろいろな念が次々と浮かんでくる。一般に無心と言うと何も思わないことのように思われている。何も思わぬことが無心ならば、睡眠薬を飲んで熟睡すれば無心になることができる。だが、それでは意識がなくなると言うに過ぎぬ。坐禅で言う無心とは心が無いのではなく、私無き心である。念そのまま念を離れることだ。

坐禅中念が生じてきたら、生じるそのままでその念に付いて回らない。すると念は自然にあるがまま生じてあるがまま自然に止む。無心とはこのことを言う。
例えば、暑い時には暑いそのまま、寒い時は寒いそのまま心は働く。だから、心には本来私は全くない。私無き心、即ち無心が心の真実であるということだ。故に、暑いそのままで暑いに付いて回る私心がなければ、暑いそのまま暑いを離れることになる。これがわれわれの生命の真実にめざめるということだ。

暑いは暑い、寒いは寒い、そのままあるがままの無念無想の生命の真実に目覚めるだけである。あるがままに全て、余ることなく欠くることなく足りていて、そのまま離れている、即ち、解脱の生命の本体に帰るだけのことである。
いかなる地獄の苦しみの中にあっても、苦しみはただ苦しみあるのみで、一点の私もない。それ故、苦しみそのままが苦しみを離れる最良の道である。
「地獄に入ること園観に遊ぶが如し」とはこのことわりを述べている。

2010年4月19日月曜日

貪瞋痴

貪瞋痴

貪瞋痴の三毒は戒定慧の三学と対称となる言葉であり、貪(むさぼり)の心、瞋(いかり)の心、痴(迷妄)の心のことである。だとすると、貪瞋痴は悪い心であり、戒定慧は正しい心と考えがちである。果たしてそうであろうか。

貪心は生きる力だ。瞋心は善心を呼び起こす力だ。痴心は正しい智慧を生ずる力だ。
決局、三毒は人生を生かす根源的な力ということだ。貪瞋痴は悪ではない。仏教はこれをそのまま戒定慧に転ずるはたらきがある。
言わば貪瞋痴は戒定慧の生母であり、貪瞋痴がなくなって戒定慧となるのではない。

仏教の理想である涅槃寂静の境地が文字通り一切の煩悩の消滅であるならば、いわゆる出家人のように、山に入り人と交わらず、木の実を食とし、戒律を守り禅定を修し、とらわれのない心で生涯を全うするか、あるいは肉体的死をもつて良しとするであろう。しかし、それはただ外境を断ち、臭いものに蓋をするだけであり、根源的解決ではない。
釈迦が悟りを開かれ、山に留まらず人間世界に下られたのもこの故である。

貪瞋痴そのものに私はない。私がないとわかると、貪そのまま、瞋そのまま、痴そのまま、貪瞋痴を離れることができる。
この智慧に目覚めるのが仏教の肝心要(かなめ)のところである。外境を断って貪瞋痴の煩悩を離れるのではなく、普通の人間生活の中で貪瞋痴そのまま貪瞋痴を離れるのが真の涅槃寂静である。そして、貪瞋痴そのまま離れ貪瞋痴を正しく生かして行くのが戒定慧である。従って釈迦は下山されることにより、仏教は真実在家仏教となったといえる。
煩悩世界そのままが在家であり、そのまま離れるのが真の出家である。すなわち、仏教は在家の出家なのである。在家仏教とは素人の仏教ではない。仏教の本旨である。

2010年3月29日月曜日

不落不昧

百丈野狐
 
或る日、百丈禅師が提唱した後、一人の老人が、他の者が去ってもいっまでも引き下がらなかったので、師が「お前さんは何者か」と問うと、其の老人は、「私は人間ではありません。大昔、この百丈山の前の住職でした。

あるとき、一人の僧が『悟った人は因果に落ちますか、落ちませんか』と問いました。
私は『不落因果』(因果に落ちません)と答えたために、五百生野狐となってしまったのです。どうか和尚、私のために一転語を与え、野狐の身から脱せしめて下さい。」と。
そして老人は百丈禅師に問うた。「大悟した人は因果に落ちますか、落ちませんか。」
師はいった。「不昧因果(因果を昧まさない)。」と。
老人は忽ち悟り、野狐の身を脱した。(『無門関』第二即)

因果の穴に落ちるのを野狐といい、因果の穴より出ずるを野狐を脱すという。
野狐とは因果と自己を二つに見て因果に縛られ、因果について回って真の自己を見失つている人の姿であり、偽りの人生のことである。

野狐を脱すとは、因果に縛られず自在を得ている人生である。
この世は因縁の世界である。因果を離れては何者も存在しない。私があって因果があるのではない。因果が私である。因果が私とわかれば、右手がが右手をとらえぬことができぬように、因果によって縛られる私はなくなり、行かんと要せばすなわち行き、坐せんと要せばすなわち坐す。因果は因果によって因果を自由自在に変えることができる。
ここに野狐に落ちない、野狐を脱する本物の人生がある。

2010年1月25日月曜日

新春法話

新春法話
 
生命(いのち)のことは生命をみよ
 
昨年暮、たまたまテレビで、本マグロの完全養殖に農林水産大学の研究チームが苦
節三十二年の後、成功したドラマをみました。
その中で,チームリーダーであつた教授は志半ばで亡くなるのですが、生前、後進
の人たちに常に述べていたことは、「マグロのことはマグロを見よ」という教えでした。
この教えを糧として、研究者たちは挫折に遭うごとに一歩一歩これを乗り切り、つ
いに世界初の本マグロの完全養殖という画期的偉業に成功したのでした。

マグロのことはマグロを見よ、これは宗教についても同じことが言えます。日本で
は宗教というと、何か近寄り難いもの、私たちの生活とはかけ離れたもののように見
られがちです。
仏教でいう宗教とは大本、根本の教えということです。私たちの大本、根本とは私
たちの生命のことです。生命(心)の真相に正しく目覚めることが宗教です。

宗教は生活とかけ離れたものどころか、生活そのもの、生命そのものであったのです。
教授の言葉を借りるならば、生命に正しく目覚めるには「生命のことは生命を見よ」
ということができましよう。生きるとは、人生の目的とは、真の拠りどころとは何か。
このような生命の問題は、結局生命に正しく目覚める以外にはありません。

では、宗教(生命)に正しく目覚めるとはどういうことか。生命とは宇宙そのもの
です。これを証明しているのが心です。即ち、心とは一切の現象そのものであり、現象そのものの証明です。

般若心経の冒頭の「観自在」とは、自ら在るを見るということです。
この世のありとあらゆる現象世界が自分の世界であると目覚めたということです。
これは正に心そのもののことです。

すべての世界が自分自身の世界であった。私たちの生命(心)とはなんと豊かで貴
いことでしょう。近年我が国では、年間三万人もの人が自殺していると報じられています。受け難き人の身を授けられながら、この上なき価値ある仏としての生命に目覚めないで、自ら生命を絶つことは誠に残念なことです。それ故、生命(心)に正しく目覚める必要があります。

ここで、心について考える時、不思議な思いが致します。心は美しいものも醜いも
のも、平等にそのまま照らします。甘味な香りも、嫌悪な香りも、差別なくそのまま
照らします。心は本来私なく、無心であったということです。いかなる現象も、私自
身の好き嫌いに善悪に関係なく、あるがまま正しく証明しているのが心の本体であった
ということです。
愉しい時には愉しいまま、悲しい時には悲しいまま、心はあるがままにはたらきます。
私の思いに関係なく、全てをあるがままに正しく証明しているのが心の真実であるということです。

ではどうして、心はこのようにあるがままに働くのでしようか。私の立場から心を
見れば、善悪、好嫌の有心と思うでしょうが、心そのものの本体は無心であり、精神
的・物質的な一切の現象をあるがままに見て平等にてらしています。
この世の一切を正しく生かさんとする無上の智慧と慈悲の結晶であるということです。

私たちの根本生命(心の真相)は、幸不幸にかかわらず、生きようと死のうと常に
この生命を正しく照らし見守っている光です。このような無上の価値は他にありま
せん。私たちは心という即近の無上の価値ある生命の真只中に常にあることに気がつ
かぬだけです。

坐禅で坐るというのは生命の根本である、無心の心に坐るということです。坐るこ
とによって無心にめざめ、とらわれのない無心の心で一切を生かしてゆくことが、生
命を正しく見ることです。「生命のことは生命を見よ」、ここに生命の真実、全ての教
えの大本である宗教があります。

2009年11月16日月曜日

鐘声七條

鐘声七條  

世界は実に広々としている。
では、どうして鐘の合図で七條の袈裟を着るのか、の意である。(無門関、第十六則)
この句は雲門禅師の言葉である。

宇宙は広大無辺であり、一方日常生活は,服を着替えたり食事をしたり、平凡なことの連続である。宇宙に比すれば、行住坐臥,見聞覚知、喜怒哀楽など一つ一つの人生は取るに足りぬちっぽけなものに思われる。

僧堂では箸の上げ下ろしから読経の一言一句まで厳しく指導される。これも宇宙の広大に比すれば、たいしたことではない。栄枯盛衰、毀誉褒貶はこの世の常。では、人生の本当の価値とは.雲門の句は、この答えを示していると思われる。

広大無辺の宇宙も一心の中であり、日常の細々とした生活のすべても一心の中ある。
宇宙は広大ですばらしく、日常生活はちっぽけで見劣りするというならば、どちらも一心に於いて同質同量であるのに、おかしいではないか。一心の本心に背いているといえる。

では一心とは何者か。見聞覚知はただ見聞覚知,行住坐臥はただ行住坐臥、喜怒哀楽はただ喜怒哀楽だけで,この他に一物なきことに目覚めることである。当然、そのものには私もなければ、心としてとらえるものもない。これが真の私であり、真の心である。即ち、
無の心、無心ということである。

一心の世界の外にこれを認識するもう一つの心『私』があると思うから、善悪,大小など、相対の世界にとらわれ縛られることとなる。
私がなければ、すべての現象をあるがままに見て平等かつ無上の、一心の価値に目覚めることができる。ここに、冒頭で記した雲門の『なぜ、どうして』の答えがある。
どんなつまらぬささいな生活の中にも、無上の一心の価値を見る。
それが、『鐘声七條』に見る世界である。

2009年9月25日金曜日

無事是れ貴人

無事是れ貴人

普通、無事の人とは、毎日面倒な問題が一切なくなり、日々平安に過ごしている人のことを言う。

しかし、単に状況が無事の人をいうもであれば、果たして貴人といえるであろうか。
貴人とは真実無事の人。

すなわち、幸不幸、平安であろうとなかろうと、いかなる人生に
あっても、平安無事の人、これが貴人だ。

このような、真に無事の人になるには、身体と心の真相に目覚め
ることが第一だ。身体も心、本来私のものではない。もとから授かった生命だ。
この身心は、生れる以前からの因縁所生のものに過ぎない。
身体は身体あるだけ。心は心あるだけ。この外特別に私があるのではない。
うれしいはただうれしい。悲しいはただ悲しい。楽しいはただ楽しい、苦しいはただ苦しい。本来、ここに私というものはない。

私がないから、喜怒哀楽は喜怒哀楽そのままが喜怒哀楽をはなれる道だ。
生老病死は生老病死そのままが、生老病死を離れる道だ。無事とはこのことだ。
日常のいかなることも、あるがままに見てとらわれず、そのまま
離れ成すべきことを成す。このような人を、無事是れ貴人という。