2018年7月11日水曜日

仏法に東西はない―オランダ接心にて②


 この五月のオランダの布教がご縁となって、八月の不二般若道場の大接心にヨーロッパから二人の方が、又秋には独り接心に参加の予定とのことである。

 オランダでは十日間滞在、三か所で話しをしましたが、禅仏教に対するあちらの方々の熱意には毎日感動の連続でした。

 たとえばオランダの禅リバー寺での私の提唱後、大衆からいろいろな質問に応答したその中で、一人の若い女性が、「私には菩提心がありません」と涙ながらに語りました。これに私は、「あなたが菩提心がないと切実に思われていることが菩提心があるということです。
オランダの皆さんも日本人も菩提心に全く変わりはありません」と答えました。

2018年6月21日木曜日

「無字」の悩みーオランダ接心にて

五月十六日から二十五日までの十日間、布教のためオランダへ行って参りました。オランダは今回で三度目です。アムステルダム空港から二百キロ離れた海から近い田舎町にある禅リバー寺の加単者約46人の五日間の接心で提唱と室内の一人一人の指導をして参りました。その後、アムステルダムで三日宿泊、二ヶ所の禅会(一つは七十人、一つは五六十人の参加者)で提唱と質疑応答を致しました。

 禅リバー寺での室内指導では、一つの例として、一人の人から、「無字が通らず悩んでいます。どうしたらよいのでしょうか。」との質問を受け、床を「トントン」と叩き、「このもの」がわかれば答えは、向かわなくても、向こうから自然とやって来ますよ、と話したり致しました。趙州無字の公案、手も足も出ないようですが、「トントン」このものがわかれば見解は無字からやって来ます。

2018年5月5日土曜日

生まれたばかりの赤子は六識を具えているのか。


 ある日、一人の僧が趙州和尚(778-897)に、生まれたばかりの赤ん坊にも眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が具っているでしょうか、と問うた。趙州はこの問に対して、急流の水の上に手まりを投げ入れると答えた。すなわち、投げ入れた手まりは水の流れに随って転々として流れ止むことがないように赤子の心も我々と同様に暑ければ暑い、寒ければ寒いと感じ、不快であれば泣き叫ぶ。赤子が「おぎゃあー」と泣けば母は急いでかけつける。この時、泣く赤子の心とこれを聞く母の心と二つの心があると考えるが、実は「おぎゃあー」の声そのものには「おぎゃあー」の声があるだけで赤子と母の二つ心があるわけではない。一心のはたらきである。日常の転々と変わる心も、心の形は一時として同じ形はないが、本当は一心があるだけである。心そのものには本来、形はない。現象は心の影に過ぎない。この一心にめざめるのが、不変の自己の真実の生命にめざめる道でもある。「おぎゃあー」の一心である。

2013年3月3日日曜日

是れ什麼(なん)ぞ

 是れ什麼(なん)ぞ

       
私たちの身心はどうしてこの世に授けられたのか。
別に、人間として生れてこようと思ったわけではない。気が付いてみると人間であった。不思議と言えば誠に不思議である。

人生は自分の都合の良いようにできているわけではない。
むしろ、思い通りにはゆかぬことの方が多い。
三、四年前、妹の長男の結婚式に出席したことがある。披露宴の席に、新郎の職場の同僚である元気な若者が何人かいた。ところが最近、妹からの話では、その中の一人が昨年自殺したということであった。原因は、夫婦仲が悪くなり、妻からの離婚話が出たことにより悩んだ末とのことであった。人生まだまだこれからという時に自ら生命を断つとは、本当に勿体ない。何故生命の尊さに思い至らなかったのか。

では、生命の尊さとは何か。
私たちは生まれた時、ギブアンドテイクではなく無条件に、見る眼、聞く耳、香りを知る鼻、味わう舌、他の無数の生きるための肉体的機能を授かっている。そして更に、肉体以上に尊い、この生命を生かすための見る世界、聞く世界……と、宇宙の全てに通じている心と言う智慧を授かっている。この智慧の光明程尊いものはこの世にない。白隠禅師はこの智慧のことを、最大、最尊、最第一と述べている。すなわち、心はこの世の物心両面のすべてに通じて、すべてをあるがままに照らしているが故に、最大、最尊、最第一である。

仏はほどけとも読める。結ぼれのないことであり、仏とは結ぼれなくすべてに通じ、照らしている心を示している。故に、この私たちの生命は、仏の大慈大悲の智慧で生かされているということである。
私たちを産み、この生命を与えてくれた肉身の父母は、この世に生きるための縁を与えてくれたが故に尊く、有難い。しかし、真実の父母は、この世の父母未だ生まれざる以前の宇宙的大生命なのだ。この真実の父母に対して、私たちは感謝の念を持ったことがあったであろうか。もしこの思いがあれば、人は如何なる苦難も乗り越えて行くことができる筈である。

ひとーつ

ひとーつ


何事を成すにも、ただ闇雲にやればよいというものではない。
坐禅もその通りで、根本に随って修行することが大事である。
それにはまず、坐禅の目的に正しく目覚めることが必要である。

では、その目的とはそもそも何であろうか。ご自分の心に正しく目覚めることである。
正しい心とは無心であり、無心の心で坐るのが本物の坐禅である。
曹洞宗の只管打坐(しかんたざ。ただ坐ること)も無心で坐るということである。無心がわからなくては、只管打坐とは言えない。
一から十まで腹式呼吸に合わせて数をかぞえる数息観も、無心で坐ることが根本であることに変わりはない。無心ということがわからないと、同じく数息観も似て非なるものとなる。このことをこれから説明したいと思う。

無心で数を念じるとはどういうことか。「ひとーつ」と心で念じる時、「ひとーつ」の他に私という余計なものはない。「ひとーつ」の一念だけである。強く念じれば強い「ひどーつ」、弱ければ弱い「ひとーつ」、ぼーっとしている時はぼーっとしている「ひとーつ」、はっきりしている時ははっきりしている「ひとーつ」、ただ「ひとーつ」が「ひとーつ」を念じている。これが無心である。私なき心である。心という余計なものもない。もとからの「ひとーつ」である。これほどはっきりしているものはない。「ふたーつ」……「とおー」の一念一念も同様である。「ひとーつ」が「ひとーつ」で、もとからあるがままにはたらいている。この他一体何を求めようというのか。

ここで大切なことは、「ひとーつ」と念じる時、ぼーつとして数を忘れたり、色々な念が浮かんできたとしても、あるがまま、そのままで、これに一切ついて回らぬことである。そして、ただ「ひとーつ」「ふたーつ」……「とおー」と念じるだけである。これが、余ることなく、欠くることなき、万人が本来具えている完全円満な智慧であり、無心の生命のはたらきに帰するということである。「ひとーつ」が「ひとーつ」、「ふたーつ」が「ふたーつ」、この他別に求めるものはない。この一念一念で坐ることが、無心で坐ることであり、只管打坐である。

大事なことは、集中できた、できなかった、雑念が生じた、生じなかった等の結果を一切問題としないことである。無心の本体には本来何物も介在するものはない。「ひとーつ」はもとから「ひとーつ」、これが坐禅の要である。「ひとーつ」「ふたーつ」……「とおー」、「な」「む」「あ」「み」「だ」「ぶ」「つ」も結局「ひとーつ」である。

祈りと覚

祈りと覚

                             
仏像を拝むは祈りである。
経文を読誦するも祈りである。
われわれは祈りによって心安らぎ、力を得る。祈りは生きる力である。

ところで、仏像を拝む、経文を読誦するとはどういうことだろうか。
この五月十五日に、品川の桐ヶ谷寺で、前角博雄大和尚の十七回忌法要に参列させていただいた。同じ師、苧坂光龍老師門下で、私にとっては法兄にあたる方だ。内輪だけとのことだったが、僧侶、檀信徒合わせて約百名が参堂し営まれた。導師は前角老師の孫弟子にあたるオランダ禅川寺住職天慶コペンズ老師だった。

前角老師は、若くして曹洞宗の布教僧となって米国に渡り、生涯を彼の地で、禅仏教の挙揚に捧げられた。その法の継承者は多数あり、今日米国全土のみならず、ヨーロッパにまで老師の法脈は広まっている。
今回、法要に参列し、列席者の話から老師が米国への布教を決意された初一念の祈りが、今日の欧米にまたがる禅仏教の開花を生んだとの感銘を受けた。
しかし、祈りは、単に祈りだけでは目的は達成できない。老師が長年月、安谷、苧坂両老師の直下で参究練磨された覚があってこそ成就されたのである。

木仏金仏は、単にわれわれの生命の真実である完全円満な仏の大人格の象徴に過ぎぬ。同じく経文も、釈迦の悟りそのものではなく、その教えに過ぎぬ。要は、仏像も経文も、真実の仏、仏の悟りを人々に覚めさせたいとのわれわれの根本の生命の祈りから生まれたものである。であるから、仏像と経文の使命は、祈りがそのまま覚となることによって成就する。では、祈りがそのまま覚となるとはどういうことか。それは、礼拝と読誦の中にも、仏心があるということだ。

六祖慧能は述べている。経文はただ誦するだけでは画に描いた餅であり、腹を満たすことにはならない、心に行うことが大事であると。
心に行うとは仏心に行うということである。仏心とは無心の心である。だから、心に行うとは無心に行うことである。無心とは心がないのではなく私無き心である。礼拝の時はただ一心に礼拝して、その心に私がない、読経の時も同様に一心に読経してその心に私がない。この時礼拝する姿がそのまま仏の姿であり、読経する心がそのまま、仏の悟り心となる。これが、祈りが覚となるということである。

丹田気海

丹田気海


最近改めて、丹田気海を練ることの大切さを痛感している。
では、丹田、気海とは何か。漢和辞典には、「丹田は臍下四から五センチのところをいい、体気をここに集むれぱ心散乱せず、思惟に適する」とあり、気海については「臍下四から五センチのところで呼吸の根本のところ」とある。

要するに、丹田も気海も名前は異なるが、下腹の呼吸の根本、気の集中するところを指している。更に言えば、丹田とは丹(まごころ、赤心)の田(田地)、即ちまごころの田地、気海とは気(空気、宇宙の気)の海(大海)即ち宇宙の気の大海原である。

苧坂光龍先生は、「呼く息は丹田に、吸う息は気海に」とよく述べておられた。では、具体的にどのように行うのかというと、呼吸は鼻で行う。息を呼く時は臍の上から下の方に腹をすぼめてゆく。七、八分通り呼いたところで吸う息に移る。吸う時はこれと反対に、力を抜いて下から上へとふくらませてゆく。これが丹田(気海)呼吸である。この時の腹の状態は、丁度錐で穴を開けたゴムボールを手で握り、徐々に圧迫して空気を出し、ある程度出したところで今度は手の力を抜いてゆくと、徐々に膨らんで元へ戻るのと同じ要領である。呼く時は腹を臍の上から下腹へとへこませてゆくが、上から下へと気が集中して行く下腹のところが丹田であり、吸う時下から上へと膨らみながら、鼻から入った空気が下腹の方へと満ちて行くところが気海である。

初めは要領を得ないが、毎日続けていると丹田気海の絶妙の味わいというものがわかってくる。呼く息、吸う息で、ひと1つ、ふた1つと数を念ずる場合でも、あせらず、無理をせず続けることである。初めは念ずる力が弱くても、回を重ねるごとに強まってゆくことがわかる。多くの古人がこの練丹の法によってお悟りを開かれた。無理はせず。油断なく、諦めずに続けることである。

道に入るための方便として、丹田呼吸は誠に素晴らしい。「呼く息は丹田に、吸う息は気海に」は丹田呼吸の要である。