2018年11月1日木曜日

平等と差別


平等そのまま差別、差別そのままが平等である。

心と現象について、人は一切の現象を認める心が別にあると思っている。
この考えが自我を認め差別の世界に縛られる迷いの原因である。
実は現象と心は本来一つである。しかも現象は心の一時の借りの宿であって
心そのものには本来姿形はない。悟りというもただこの一つ心(正しい心)
にめざめるに過ぎない。

臨済禅では伝統的に正身端坐して腹式呼吸に合わせて一から十まで数をかぞえ
心を整える行法がある。ひとーつと数を念ずれば念じたそのままに心ははたらく。
二から十までも同様である。数を認識しようと思わぬとも念じたそのまま、
あるがままに心ははたらく。

これが現象と心が本来一つである証である。

見聞覚知は見聞覚知、行住坐臥は行住坐臥そのまま、あるがままに心ははたらく。
これは人が生まれてから得た後得智のはたらきではない。後得智を後得智として
そのまま、あるがままにはたらく平等性智(一心)のはたらきである。

日常生活の根底に一心の正しい智慧と慈悲の光明があって初めて人は生活できる。