2009年7月17日金曜日

パーン!

パ―ン!

手を合わせて「パ―ン!」と音をたてれば、
その場の人は全員が「パ―ン」とわかる。
一人一人の顔や姿は違っても、心は一つであったということだ。

私たちは普通、「パーン」と音がすると、「パーン」と心が認識するとおもう。
実は「パーン」は、ただ「パーン」
これを認識する、別に心があるのではなかった。
「パーン」そのものが心であり、音であり、私であった。
しかし、「パ-ん」そのものは、
心とも、音とも、私とも言っていない。
あらゆる表現を超えている、もとからの一つの生命、
心こそが「パーン」なのだ。

人だけでなく、猫でも、犬でも、
そこに居れば同じく「パ-ん」とわかる。
音の世界だけではない。
見る、感じる、思う世界も、
すべてこの「パ-ん」と同じ一つの生命、心の世界であった。

この世に生を受け、「オギャ-」と叫んだ一声も、
生れる前の生も、今日の生活も、後の生も、
全てが「パーン」の世界だ。

では「パーン」とは一体何者か。

「パーン」とは無心、私なきもとからの生命のはたらきだ。
私の思いに関係なく、「パ―ン」と音がすれば「パーン」とわかる。
私生命の本体はチリ一つない、
無心の心であったということだ。

「パーン』が「パ-ん」と、そのままに全てを正しく照らしている智慧、
正しく生かさんとする慈悲の心こそが、
無心であり、生命の本体なのだ。