2013年3月3日日曜日

ひとーつ

ひとーつ


何事を成すにも、ただ闇雲にやればよいというものではない。
坐禅もその通りで、根本に随って修行することが大事である。
それにはまず、坐禅の目的に正しく目覚めることが必要である。

では、その目的とはそもそも何であろうか。ご自分の心に正しく目覚めることである。
正しい心とは無心であり、無心の心で坐るのが本物の坐禅である。
曹洞宗の只管打坐(しかんたざ。ただ坐ること)も無心で坐るということである。無心がわからなくては、只管打坐とは言えない。
一から十まで腹式呼吸に合わせて数をかぞえる数息観も、無心で坐ることが根本であることに変わりはない。無心ということがわからないと、同じく数息観も似て非なるものとなる。このことをこれから説明したいと思う。

無心で数を念じるとはどういうことか。「ひとーつ」と心で念じる時、「ひとーつ」の他に私という余計なものはない。「ひとーつ」の一念だけである。強く念じれば強い「ひどーつ」、弱ければ弱い「ひとーつ」、ぼーっとしている時はぼーっとしている「ひとーつ」、はっきりしている時ははっきりしている「ひとーつ」、ただ「ひとーつ」が「ひとーつ」を念じている。これが無心である。私なき心である。心という余計なものもない。もとからの「ひとーつ」である。これほどはっきりしているものはない。「ふたーつ」……「とおー」の一念一念も同様である。「ひとーつ」が「ひとーつ」で、もとからあるがままにはたらいている。この他一体何を求めようというのか。

ここで大切なことは、「ひとーつ」と念じる時、ぼーつとして数を忘れたり、色々な念が浮かんできたとしても、あるがまま、そのままで、これに一切ついて回らぬことである。そして、ただ「ひとーつ」「ふたーつ」……「とおー」と念じるだけである。これが、余ることなく、欠くることなき、万人が本来具えている完全円満な智慧であり、無心の生命のはたらきに帰するということである。「ひとーつ」が「ひとーつ」、「ふたーつ」が「ふたーつ」、この他別に求めるものはない。この一念一念で坐ることが、無心で坐ることであり、只管打坐である。

大事なことは、集中できた、できなかった、雑念が生じた、生じなかった等の結果を一切問題としないことである。無心の本体には本来何物も介在するものはない。「ひとーつ」はもとから「ひとーつ」、これが坐禅の要である。「ひとーつ」「ふたーつ」……「とおー」、「な」「む」「あ」「み」「だ」「ぶ」「つ」も結局「ひとーつ」である。