2013年3月3日日曜日

是れ什麼(なん)ぞ

 是れ什麼(なん)ぞ

       
私たちの身心はどうしてこの世に授けられたのか。
別に、人間として生れてこようと思ったわけではない。気が付いてみると人間であった。不思議と言えば誠に不思議である。

人生は自分の都合の良いようにできているわけではない。
むしろ、思い通りにはゆかぬことの方が多い。
三、四年前、妹の長男の結婚式に出席したことがある。披露宴の席に、新郎の職場の同僚である元気な若者が何人かいた。ところが最近、妹からの話では、その中の一人が昨年自殺したということであった。原因は、夫婦仲が悪くなり、妻からの離婚話が出たことにより悩んだ末とのことであった。人生まだまだこれからという時に自ら生命を断つとは、本当に勿体ない。何故生命の尊さに思い至らなかったのか。

では、生命の尊さとは何か。
私たちは生まれた時、ギブアンドテイクではなく無条件に、見る眼、聞く耳、香りを知る鼻、味わう舌、他の無数の生きるための肉体的機能を授かっている。そして更に、肉体以上に尊い、この生命を生かすための見る世界、聞く世界……と、宇宙の全てに通じている心と言う智慧を授かっている。この智慧の光明程尊いものはこの世にない。白隠禅師はこの智慧のことを、最大、最尊、最第一と述べている。すなわち、心はこの世の物心両面のすべてに通じて、すべてをあるがままに照らしているが故に、最大、最尊、最第一である。

仏はほどけとも読める。結ぼれのないことであり、仏とは結ぼれなくすべてに通じ、照らしている心を示している。故に、この私たちの生命は、仏の大慈大悲の智慧で生かされているということである。
私たちを産み、この生命を与えてくれた肉身の父母は、この世に生きるための縁を与えてくれたが故に尊く、有難い。しかし、真実の父母は、この世の父母未だ生まれざる以前の宇宙的大生命なのだ。この真実の父母に対して、私たちは感謝の念を持ったことがあったであろうか。もしこの思いがあれば、人は如何なる苦難も乗り越えて行くことができる筈である。